冷戦時代に繰り広げられた熾烈な核開発競争。
当時ソビエト連邦が核実験をしていたカザフスタンのセミパラチンスクでは、
今でも多くの人々が残留する放射能に苦しめられている。

写真・文/フィル・ハッチャー=ムーア
DAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査委員特別賞

ここでソビエト連邦によって、1949年から40年間にわたり、456回の核爆弾の実験がおこなわれた。セミパラチンスク核実験場跡、カザフスタン。2016年10 月3日
ここでソビエト連邦によって、1949年から40年間にわたり、456回の核爆弾の実験がおこなわれた。
セミパラチンスク核実験場跡、カザフスタン。2016年10 月3日

「無人」とされた地でおこなわれた核開発競争

荒れ果てた大草原で、それは奇妙な光景だった。巨大なサメのヒレのような三角形のコンクリートが地面から突き出し、重く立ち込める雲の下で屹立している。辺りは風が吹きすさび、乾いた草が波打つばかりだ。一体この光景はなにを暗示しているのか。
セミパラチンスク核実験場は、ロシア国境に近いカザフスタンの東北部の大草原にあった。巨大な三角形のコンクリートは、核実験がおこなわれた場所から200メートルほどのところに立っている。遠方に見えるのはシェルターで、ここから指揮が執られたのだろうか。付近にはいくつもの湖があるが、これは自然にできたものではなく、核実験によってできたクレーターだ。現在も、その岸辺では高濃度の放射能が検出されている。

東部の中心都市アヤゴズの特別福祉子どもセンターのベッドに横たわるラスタム・ジャナバエフ(6歳)。先天性の水頭症を患っている。アヤゴズ、カザフスタン。2016年10月10日
東部の中心都市アヤゴズの特別福祉子どもセンターのベッドに横たわるラスタム・ジャナバエフ(6歳)。先天性の水頭症を患っている。
アヤゴズ、カザフスタン。2016年10月10日

核実験場は旧ソビエト連邦によって造られ、面積は1万8000平方キロ(ほぼ四国と同じ)もあった。周囲を低山に囲まれ、雑草が生い茂っていたので、科学者たちは雑草が放射能を吸収すると期待した。建設当初、彼らはここを無人の地と説明していたが、実際には村が点在し、何万人もの人が住んでいた。 
1949年から89年まで、ここで世界でも最大規模の核実験プログラムが推し進められ、456発の核爆弾が炸裂した。これは世界でおこなわれた核実験の4分の1近くを占める。時代はアメリカとソ連の冷戦のさなかで、両国は核開発にしのぎを削っていた。

核実験場の北側に隣接するクルチャトフの町。かつては核実験場の本部があり賑わった町も、今では人口が減り、団地も荒れ果てている。クルチャトフ、カザフスタン。2016年10 月3日
核実験場の北側に隣接するクルチャトフの町。かつては核実験場の本部があり賑わった町も、今では人口が減り、団地も荒れ果てている。クルチャトフ、カザフスタン。2016年10 月3日

ソ連は、日本に原爆を落としたアメリカに追いつこうと躍起になっていた。最初に22キロトン(注1)の原爆の実験に成功したとき、ソ連は大喜びした。アメリカが使用した原爆は、広島が15キロトン、長崎が21キロトンだったからだ。その後、アメリカが54年にビキニ環礁でおこなった実験では、爆弾は15メガトン(注2)になっていた。ソ連は60年代に史上最大の100メガトンの水素爆弾を作り、それを50メガトンに小型化して、セミパラチンスクではなく、北極圏の島で実験した。その衝撃波は地球を3周したという。以来、両国ともそれほど大規模な核爆弾は作っていないが、核拡散、そして戦術核兵器と呼ばれる「使える核」の脅威は増すばかりだ。
(注1)核爆弾の威力を火薬の量で表した単位。1キロトン=1000トン (注2)1メガトン=100万トン

被曝した人々の苦しみ

実験場の中心地の近くに、2台のコンテナと農機具の納屋があった。コンテナの中では羊が飼われ、周囲にはさまざまな植物が植えられていた。若い核生物学者や職員が、羊や植物の世話をしていた。実は彼らは、羊や植物に放射能で汚染された飼料を与え、それが動植物にどんな影響をおよぼすかを調べていたのだ。村人たちはなにも知らされていなかった。

ヒツジとヤギの世話をするカズベク・カシモフ(60歳)。場所によってはまだひどく放射能に汚染されている。セミパラチンスク核実験場跡、カザフスタン。2016年10月3日
ヒツジとヤギの世話をするカズベク・カシモフ(60歳)。場所によってはまだひどく放射能に汚染されている。
セミパラチンスク核実験場跡、カザフスタン。2016年10月3日

「私が5歳のときにポリゴンが造られましたが、そこでなにをやっているのか、なにも知らされませんでした」と、ジャクリュク・アビイユリ(72歳)は語る。ポリゴンとは核実験場の通称だ。彼が人生のほとんどを過ごしたサリザール村は、核実験場の縁にある。「学校に研究者たちが来て、生徒を外に出して、室内でなにかしていたこともあります。計測器をいっぱい持った男が来たこともあります。村人たちは実験動物同然だったんです」。家族は相次いで病気と自殺で死去。彼自身も現在、多くの病気に苦しんでいる。ポリゴンで人生を台無しにされたと感じているが、政府からはなんの援助もない。

セメイのがんセンターの手術室前で、大腸がんの手術が終わるのを待つ看護師。この地域ではがんにかかる人が非常に多い。セメイ、カザフスタン。2017年10月14日
セメイのがんセンターの手術室前で、大腸がんの手術が終わるのを待つ看護師。この地域ではがんにかかる人が非常に多い。
セメイ、カザフスタン。2017年10月14日

「ポリゴンのことなんかなにも知りませんでしたよ。村を歩いていたら、明るい光が空にみえたのよ」と、核実験場の縁のスナメンカ村に住んでいたゼインエルハン・シズディコフ(76歳)はセメイの町で語った。彼女が閃光を見たのは39年前のことで、そのとき妊娠7か月だった。3か月後、出産した子どもは目が見えず、顔面に重い障害があった。子どもはベリルと名付けられたが、顔面に常に痛みを持ち、それを和らげるためにこれまでに6回の手術を受けた。さらに最近、この障害に関連する別の病気も発症したという。

ベリル・シズディコフ(38歳)は生まれつき目が見えず、顔面に障害がある。そのため6回手術を受けた。彼を妊娠中に母親が核実験の閃光を見た。セメイ、カザフスタン。2016年10月1日
ベリル・シズディコフ(38歳)は生まれつき目が見えず、顔面に障害がある。そのため6回手術を受けた。
彼を妊娠中に母親が核実験の閃光を見た。セメイ、カザフスタン。2016年10月1日

「ポリゴンが造られた49年に、父はポリゴンの中の村で産まれました。息子のアリアンが抱えるテンカンや学習障害とも関係があるかもしれない」と、サウレ・イマンバエフ(40歳)は語る。ポリゴンやその近辺に住んでいた人々の多くは、がんにかかったり、障害のある子どもを産んだり、アルコール中毒になったり、自殺したりしている。影響が本人や子どもには出ず、その孫に出ることもある。湖や窪地からは、今も高濃度の放射能が検出されることがあり、さらに後世まで影響がおよぶ可能性がある。核実験場は消えても、放射能は亡霊のように地上をさまよい続け、人々に多大な苦しみを与えている。

実験場の北側にあるセメイの町で、自宅の窓辺にいるアリアン・イマンバエフ(9歳)。テンカンと学習障害を患っている。祖父が核実験場のなかに住んでいた。セメイ、カザフスタン。2017年1月27日
実験場の北側にあるセメイの町で、自宅の窓辺にいるアリアン・イマンバエフ(9歳)。テンカンと学習障害を患っている。
祖父が核実験場のなかに住んでいた。セメイ、カザフスタン。2017年1月27日

91年12月、カザフスタンはソ連の解体直後に独立したが、その際スルタン・ナザルバエフ大統領は歴史的な大統領令を出して、核実験場を閉鎖。その後核兵器を自主的に廃棄して、核拡散防止を訴える世界の提唱者となった。しかしカザフスタンはウランの埋蔵量が世界第二位で、生産量も09年に世界一位となった。ウランをめぐる各国の思惑や、原子力発電所の建設計画もあり、今後もカザフスタンから目を離すことはできない。 
(構成・翻訳/野口みどり)

フィル・ハッチャー=ムーア
フォトジャーナリスト。1982年イギリス生まれ。2013年のDAYS国際フォトジャーナリズム大賞では、審査員特別賞を受賞した。