ハンセン病の父の記憶で、「国策による差別」を知った

国がおこなう基地建設工事の不正を冷静に問い詰める土木技術者、奥間政則さん。基地に反対する現場では、ハンセン病差別を受けた父の記憶を胸に、沖縄への暴力と差別的な国策に対し最前線で闘ってきた。先日の名護市長選では、官邸や与党の異常なまでの介入によって、基地に反対していた現職が敗れた。今後、辺野古の新基地建設は、一気に強行されるかもしれない。高江で、辺野古で、何が起きてきたのか。今こそ、奥間さんの言葉と共に伝えたいと思う。

話/奥間政則(沖縄県大宜味村在住・1級土木施工管理技士)
写真/平井茂(ドキュメンタリーフォトグラファー)
まとめ/金井良樹(本誌編集部)

辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前で、新基地工事の問題点を説明する奥間政則さん。 2017年4月12日
辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前で、新基地工事の問題点を説明する奥間政則さん。 2017年4月12日

沖縄県大村に住む奥間政則さんは、国家資格である1級土木施工管理技士の資格保持者。多くの土木工事に携わった現場経験から、高江と辺野古で進む工事の技術的な問題を市民の立場から指摘し続けてきた。奥間さんの活動によって、それらの工事が単に住民の意見を無視しているだけではなく、普通の土木工事ではありえないような違法行為や手抜きがおこなわれていることが明らかになっている。その中には、環境や、作業員の安全を脅かすものも含まれる。
違法工事が強行される背景には、アメリカの機嫌を損ねないように日米で約束した納期を何よりも優先するとともに、工事が順調に進んでいることを強調して県民を諦めさせようとする歪んだ政権の姿があると奥間さんは指摘している。
今、彼が最も力を入れているのが、辺野古の新基地建設予定地の地盤の問題だ。海底は琉球石灰岩という軟弱な地盤に覆われ、大型構造物の建設に全く適していないという。さらに、直下を走る断層が活断層である可能性が高いとみて、国に調査結果の開示を求めている。
そんな奥間さんが、基地反対の立場で運動に関わるようになったきっかけの一つとして、ハンセン病だった両親の存在があった。

奥間さんの父が書いた手記。戦争体験だけではなく、沖縄に新たに造られる辺野古の基地について「(耐用年数が)後二百年は遠すぎる」、「沖縄に戦後と言える日があったか」などと綴っていた。
奥間さんの父が書いた手記。戦争体験だけではなく、沖縄に新たに造られる辺野古の基地について「(耐用年数が)後二百年は遠すぎる」、
「沖縄に戦後と言える日があったか」などと綴っていた。

「両親は手や足に障害があり、ハンセン病だということは20代の頃から気付いていましたが、深く考えたことはありませんでした。私が幼い頃、父は酒に溺れて母や私にひどい暴力を振るっていました。こんな大人にはなりたくないと思い、家を出てからも父をずっと恨んでいました。暴力に耐えかねて母に連れられて家出をしたこともあります。家庭は崩壊していました」
こう話す奥間さんが両親のハンセン病のことを詳しく知ったのは、2013年のこと。
「父が自分の兄弟のために書いた手記を、私にパソコンで清書してほしいと頼んだことがきっかけでした。父の手記には、沖縄戦で空襲やマラリアに苦しめられた壮絶な体験や、戦後の米軍による圧制、本土復帰した後も平和が訪れないことへの怒りも綴られていました。その中に、戦後発症したハンセン病のことも書かれていたのです。父は発症後に沖縄本島を出て、奄美大島の和光園という、日本で唯一、断種・堕胎をおこなっていなかった療養所へ入りました。そこで母と知り合って結婚し、母は私を出産しました。和光園で両親が出会っていなければ、私は生まれていなかった」

奄美大島にあるハンセン病療養所、和光園の近くにある保育所にいた頃の奥間さん。シスターに世話され、両親とは違う建物で生活していた。(本人提供)
奄美大島のハンセン病療養所、和光園の近くにある保育所にいた頃の奥間さん。
シスターに世話され、両親とは違う建物で生活していた。(本人提供)

しかし両親は、自身の体験についてはほとんど語らなかったという。そこで奥間さんは、2015年に父が晩年入所していた沖縄本島北部の屋我地(やがじ)島のハンセン病療養施設「愛楽園」に足を運び、当時完成したばかりだった愛楽園交流会館を訪ねた。そこで、学芸員の辻央(つじ・あきら)さんと出会ったという。
「彼に父の話をしていたら、名乗ってもないのに『もしかして奥間さんですか?』と言われたのです。びっくりしました。実は辻さんは、『沖縄県ハンセン病証言集』を作成する中で、父にも聞き取りをおこなっていたのです」

証言集で初めて知った父の苦しみ

「『これがお父さんの証言です』と見せられたページには、父がハンセン病を理由に差別や嫌がらせを受け、職を転々とせざるを得なかった辛い日々のことが書かれていました。父はタクシーの運転手をしていたのですが、ハンセン病回復者だということが職場で知られると、父の出勤時間にはタクシーが1台も残っていない。タクシー会社も、ハンセン病回復者の運転手がいるという評判が広がることを嫌って、父が退職するように仕向けていました。その時期が、酒に溺れて私たちに暴力を振るっていた時期とぴったり重なったのです。それを読みながら、私は父の辛さ、それを知らなかった悔しさで涙が止まりませんでした。父は嫌がらせを受けて、酒に逃げざるを得なかったんです。差別や偏見が父の心を歪ませてしまった。40年以上も、私は父を誤解していました。その父は2年前に亡くなりました。親孝行すらできなかった・・・・・・」

辺野古の新基地建設に反対する人々が、基地内に入る工事用の資材を積んだトラックを止めようとするのを取り押さえる機動隊。 2017年3月4日
辺野古の新基地建設に反対する人々が、基地内に入る工事用の資材を積んだトラックを止めようとするのを取り押さえる機動隊。 2017年3月4日

ハンセン病差別は今も続いている。隔離政策が終わった後も、多くの回復者が療養所で暮らしていることが、それを物語る。
「沖縄には約450人の退所者がいますが、自分がハンセン病回復者だとカミングアウトした人は5本の指でたりる程度。父は証言集の聞き取り調査には応じましたが、自分の名前を伏せ字にしていました。父の遺骨は親族の墓ではなく、今も愛楽園の納骨堂に入っています。多くのハンセン病回復者の遺骨が、遺族から引き取りを拒否されて、全国の療養所の納骨堂に納められています。死んでからもハンセン病回復者に対する差別は続くのだと思い知りました。どれだけ悔しかったか」

高江のN1表のゲート前では毎日、ヘリパッド建設のための資材を運ぶダンプを止めるため、市民が座り込んだ。機動隊は数の力で彼らを強制排除した。2016 年11月8日
高江のN1表のゲート前では毎日、ヘリパッド建設のための資材を運ぶダンプを止めるため、市民が座り込んだ。
機動隊は数の力で彼らを強制排除した。2016 年11月8日

米軍基地内工事で現場責任者をしたことも

「子どもの頃からものを作るのが大好きで、中学校の部活は木工技術部。工業高校の土木科を卒業してから、ずっと土木一本でやってきました。本当は建築科志望だったけど、成績が悪かったから」
奥間さんは高校卒業後に沖縄を離れ、東京の専門学校に進学。そのまま東京の上下水道の会社や都市計画のコンサルタント会社などで働き、あわせて10年間を東京で過ごした。その後沖縄に戻って土木建設の企業に就職。県や国関係の公共工事の現場責任者を務めた。その中には、愛楽園のある名護市の屋我地島と今帰仁村の古宇利島を結ぶ大型架橋である古宇利大橋などの難工事もある。こうした海洋土木の経験が、今の辺野古における工事の不備を指摘することに役立っていると話す。そんな奥間さんだが、かつては米軍基地内の工事も経験したという。

辺野古の新基地建設に抗議するひとりの市民を、機動隊は10人がかりで取り囲んだ。2017年3月4日
辺野古の新基地建設に抗議するひとりの市民を、機動隊は10人がかりで取り囲んだ。2017年3月4日

「1995年、キャンプ・ハンセンで、少女が3人の米兵に集団強姦される事件が起きた頃、私はキャンプ・ハンセン内の工事の現場責任者をしていました。米兵の事件は日常茶飯事だった上、工事現場の責任者は権限も大きいので、仕事に集中しすぎていたのか、あまり印象に残っていません。でも、あれだけ大きな抗議集会がおこなわれていたのに、無関心だった当時の自分を恥ずかしく思います。 キャンプ・ハンセンの工事をやっている時に感じたのは、米軍基地というのは本当に贅沢に土地を使って綺麗に整備されているな、ということです。私たち県民は狭い土地に家を建てて住んでいるのに、基地には広い敷地があって、立派な建物があり、芝生も全部整備されている。これが果たして公共工事なのか、と。『これらは防衛予算、つまり日本の税金でまかなわれているんだな』という気持ちも、もちろんありました。沖縄の土建業の一番の特徴は、基地工事の需要の高さです。米軍基地内では、まだ十分使える施設でも取り壊して新たな施設を造る。決して工事がなくなることがないのです」
とはいえ、基地の工事に従事していながら、基地には反対するという葛藤は常に抱えていたという。

機動隊ともみ合いになり倒れた女性は、しばらく立ち上がることができなかった(高江)2016年8月8日
機動隊ともみ合いになり倒れた女性は、しばらく立ち上がることができなかった(高江)2016年8月8日

土建屋として喜ばれれるものを造りたい

「1997年に、名護市で辺野古の基地建設の是非を問う市民投票がありました。その時は、会社は工事をストップさせ、従業員を基地賛成の選挙活動に駆り出したのです。自民党系の集会や名護での決起大会は、作業服の土建屋ばかりが集まっていました。その上、投票日には作業服で投票所の前で『基地賛成』という旗を持たされました。当然、市民は敵視するわけです。基地を造らせていいのか、と」
複雑だったが、会社の命令だから仕方ないという気持ちだったという。
「投票が終わった後、われわれ土建屋は肩身の狭い思いをしながら、名護の居酒屋でテレビの開票速報を見ていました。席も、作業服を着ている人たちとそれ以外で分かれていた。ところが、テレビで基地反対派の勝利が報じられると、作業服の土建屋と、その辺にいる一般の人が一緒に肩を組んで『やったやった』と喜んだのです。沖縄では、私たちの親の世代が沖縄戦で苦しんだ経験がある。だから、土建屋だって『基地があってはいけない』という気持ちは一緒なんです」

高江に新たにヘリパッドが建設されたH地区で、伐採された木々が無残に横たわっていた。奥には機動隊の姿が見える。2016年11月1日
高江に新たにヘリパッドが建設されたH地区で、伐採された木々が無残に横たわっていた。奥には機動隊の姿が見える。2016年11月1日

奥間さんは2009年に会社を辞め、今は個人で図面を引く仕事をしているが、基地反対運動にはいつも作業服で参加している。「土建屋は︑道路や港など人に喜ばれたり、生活が便利になるものを造ったりするのが仕事。どうせ税金でやるんだったら、人に喜ばれるものを造りたい。人を殺すための基地を造って誰が喜びますか。基地建設の作業員によく話しかけますが、彼らはいつも『仕事だから仕方ない』と答える。自分もそうだったので気持ちは分かりますが、人を殺すものを造っているのに、仕方ないでは済まされないでしょう。自分は土建屋としての誇りを持って反対運動に参加しています」
奥間さんが最初に基地の反対運動に参加したのは12年。宜野湾市で開かれた、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会だった。「地元の大宜味村がバスを出すというので、行ってみようと思って。沖縄の基地問題はどんどんひどくなっているという実感がありましたから。こんなにたくさんの人が反対していたのかと身震いしたことを今でも覚えています」
大会には、県民約10万人が集結した。
「2回目に参加した集会は、15年5月の、新基地建設反対県民集会でした。そのときは前回より規模は小さかったですが、同様の熱気を感じました」
この集会の翌日、ハワイでオスプレイが墜落し、そのニュースは地元の新聞でも大きく報じられた。沖縄県や宜野湾市は、事故原因が究明されるまでの飛行自粛を求めた。奥間さんはその翌日、初めて高江を訪れたという。
「『まさか墜落事故を起こした翌日に飛ぶことはないだろう』と思っていたのですが、なんとオスプレイが上空を飛んでいる。こんなことが沖縄ではまかり通るのかと、ショックでした」

2015年2月に米軍に提供された高江のヘリパッドN4地区に着陸するオスプレイ。強力なダウンウ ォッシュ(ヘリコプターや垂直離着陸機の回転翼が生み出す吹き下ろしの風)で枝や葉が飛び散っている。2017年3月29日
2015年2月に米軍に提供された高江のヘリパッドN4地区に着陸するオスプレイ。
強力なダウンウォッシュ(ヘリコプターや垂直離着陸機の回転翼が生み出す吹き下ろしの風)で枝や葉が飛び散っている。2017年3月29日

今の日本国民に不満があります

奥間さんは、父が遺してくれた手記と証言集によって、「沖縄への基地の押し付け」と「両親が受けたハンセン病差別」が同種のものであると感じるようになったという。どちらの問題も、勉強すればするほど、国という存在に直面せざるを得なかったからだ。沖縄への基地集中の背景にある、「国策」としての弱者に対する差別の構造とは何なのか。
「朝鮮戦争をきっかけに、アメリカから日本本土に移転されていた海兵隊の基地の周辺で、米兵による暴行事件が多発して深刻な問題になりました。当時の民意は強かったので、全国的に『米軍基地はいらない』という運動が広がって日米政府も危機感をおぼえたのでしょう。その結果、当時米軍統治下だった沖縄に海兵隊の基地を押し付けた(注1)のです。その時の日本国民には『押し付ける』という気持ちはなく、『とりあえず自分たちの地域から基地をなくせれば』という一心だったと思う。でも、沖縄の米軍基地は固定化され、さらに拡張されようとしている現状があります。『うちにはいらない、沖縄だったらいい』というのが差別です。それに気づいていながら、気づかないふりをしている今の日本国民に対して不満があります。かつて米軍の本土上陸を防ぐために捨石にされた地に、今もアメリカのための基地を集中させている。しかも、本土とは違い、どれだけ県民が反対しても基地を押し付ける。そのような差別的な政策を、国策として進めていることを本土の人に気づいて欲しい。沖縄の青い海や白い砂浜も見てもらいたいですが、機動隊に私たちがどのように扱われているかを見に来て欲しいのです。これが果たして『平和国家』のおこないなのか、と。そもそも、基地は『人を殺す道具』です。多くの住民が犠牲になった地上戦という歴史が沖縄にはあった。二度と繰り返してはならないのです」

(注1)1953年より岐阜と山梨にのみ駐留していた海兵隊の地上部隊「第3海兵師団」は、地元住民による激しい反対運動に直面する。対米感情が
悪化することを恐れた米軍は、1956年に海兵隊を両県から沖縄に移転した。沖縄の地理的(地政学上の)優位性が理由ではなかった。

辺野古の浜では、米海兵隊の水陸両用装甲車を使った実戦訓練がおこなわれている。機関銃を手にしている海兵隊の姿も見られる。2017年3月14日
辺野古の浜では、米海兵隊の水陸両用装甲車を使った実戦訓練がおこなわれている。
機関銃を手にしている海兵隊の姿も見られる。2017年3月14日

差別のもつ構造に気づいて欲しい

差別に国が「お墨付き」を与えることで、多くの人が差別を差別と気づくことが難しくなる。そうした「国策」としての差別は、ハンセン病差別にも通じる。「ハンセン病は日本の兵力を弱くする『国辱病』と呼ばれ、療養所で女性が妊娠すると看護師がお腹に針を刺して胎児を殺していました。本来赤ちゃんを取り上げるのが仕事であるはずの看護師が、国に言われたからといって赤ちゃんを殺していた。父の証言集では、『そういう時代だったから仕方ない』と言った看護師の話が出てきます。これが国策による差別の恐ろしさです。そして、国が率先して差別をしてきた弊害で、今もハンセン病回復者への差別は続いています」
奥間さんは、ハンセン病についての講演資料に、『ハンセン病と向き合う』というタイトルをつけている。「ハンセン病回復者の伊波敏男さん(注2)に、『お父さんの手記や証言集は、奥間さんに気づいてもらうためだったのでは』と言われた時には、はっとしました。両親は、息子の私にすらハンセン病のことをひた隠しにして生活してきたからです。私は父のことをずっと誤解していましたが、父の手記と証言は私へのメッセージだったのかもしれません」
奥間さんは、そのおかげで父が受けてきた差別を知り、そして国がおこなってきたハンセン病差別や、沖縄に対する差別に向き合うことができたと話す。
「父は確かに社会でひどい差別を受けていましたが、家庭ではさらに弱い私や母に暴力を振るいました。差別には『弱い者にしわ寄せがいく』構造があり、差別は連鎖していきます。その差別の大元となるのが、『国策としての差別』です。それに気づいて欲しいという気持ちで、講演にも立っています。どうか国策によって虐げられてきた弱者の声を聴いてください。そして一緒に差別のない社会を築いていきたいのです」

(注2)戦後にハンセン病を発症し、愛楽園に入所していたハンセン病回復者。作家。
2018年4月号にて体験談「疼きの中で夢を見る」を掲載予定。

おくま・まさのり
1965年名瀬市(奄美大島)生まれ。30年近く現場責任者として土木工事に携わる。
現在はそうした現場経験を活かして、高江や辺野古の反対運動を技術的な側面からサポートしている。