辺野古新基地の建設現場前で、ヘリパッド建設予定の高江の米軍演習場ゲート前で、「基地は絶対に造らせない」と、365日、非暴力で抵抗する人々がいる。彼らの多くは沖縄戦の体験者だ。機動隊に排除されても排除されてもただひたすらに座り込み続ける。彼らは言う。「二度と沖縄を戦場にしない」

写真・文/森住卓

なぜ座り込み続けるのか

4月、元海兵隊員で嘉手納基地に勤める米軍属がウオーキング中の女性を後ろから襲い、その遺体を山の中に捨てた。発見された遺体は半分白骨化していた。残忍な犯罪に、沖縄中が震撼した。

事件発覚の数日後、辺野古新基地建設に反対し、米軍キャンプ・シュワブ前で座り込む市民の前で、三線を演奏しようとしていた男性がいた。演奏を始める前、彼は事件についてのコメントを話そうとした。暫くじっとうつむいた彼は、いきなり奇声を発し大声で泣き始めた。事件への悲しみ悔しさ怒りがこらえきれず、全身から絞り出すような声だった。

戦後、米兵や軍関係者による犯罪で身内をレイプされ殺され、人権を蹂躙(じゅうりん)された人々の正確な数は明らかにはなっていないが、戦後を生き抜いてきた沖縄県民の多くが、その悔しさを胸の内にしまい込んできた。事件後、「もう我慢の限界」「基地がある限り事件事故は無くならない」という悲鳴のような声が上がったのは、当然のことだった。

真夏の炎天下で、真冬の底冷えの中で、彼らはなぜ座り込むのか? 私は、辺野古新基地建設と東村高江のヘリパッド建設に反対する運動が始まって以来、多くのおじい、おばあたちの姿を見てきた。その方たちの多くが、日本で唯一の地上戦に巻き込まれ、県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦の体験者で、生き残りだった。

そんな彼らの体験こそ、戦争に繋がるすべてのものに反対する揺るぎない意思となり、平和を願う沖縄世論の背骨となっていることを強く感じている。

伊佐真三郎さんの体験

「この(高江の)闘いは、絶対に暴力を振るってはいけない。暴力は戦争につながる。だから非暴力で通すこと。機動隊にやられてもじ
っと我慢してね」

7月22日に高江のヘリパッド工事が強行的に着工された翌朝、N1ゲート前には、高江に住む伊佐真三郎さん(86歳)の姿があった。「こんな年寄りが来っても力になれないけれど、わじわじして(腹が立って)、家で休んでられんよ」と、家族の車に乗せてもらい駆けつけた。彼は、2007年から高江で座り込み続けてきたひとりだ。

少年のころ、近所の友達と海軍少年志願兵になろうと契りの入れ墨を入れた伊佐さん。「土」の字は「海で死なずに土の上で死のう」という意味だった。2015年7月5日
少年のころ、近所の友達と海軍少年志願兵になろうと契りの入れ墨を入れた伊佐さん。「土」の字は「海で死なずに土の上で死のう」という意味だった。2015年7月5日 Photo by Takashi MORIZUMI

真三郞さんは、14歳のときに沖縄戦を体験した。軍国少年だった真三郞さんは、近所の友人たちと海軍少年志願兵に応募した。しかし、健康検査でひっかかり、真三郞さんだけ落とされてしまう。その後、母は真三郞さんを九州に向かう疎開船「対馬丸」に乗せようと試みたが、乗船の前日、真三郞さんは「家族と一緒に戦う」と言ってそれを断った。

1945年4月になると、真三郞さんたちが住む泡瀬(現・沖縄市)にも米軍が迫って来た。「激しい艦砲と米軍の機銃攻撃から逃げる途中、赤ちゃんを抱いて逃げる母親と出会いました。母親は足に大ケガをしていて、赤ちゃんを道端に置くと、自分は川に身を投げてしまいました。置き去りになった赤ちゃんが、泣きもしないで草の中からじっとこちらを見つめているんですよ。あのときどうして助けてあげなかったのか? 今でも草の間から赤ちゃんがこちらを見つめている夢を見るんです」。終戦後、行方不明になっていた上の兄は中国戦線で戦死、二番目の兄はサイパンで斬り込み隊に入って戦死したことがわかった。海軍志願兵になった友達も、対馬丸に乗った近所の人も戻らなかった。

21年前、木材加工に携わっていた真三郎さんは木材の豊富なやんばる(山原)で木工所を開こうと泡瀬から高江に移住した。仕事を息子の真次さんに譲り、これからは緑豊かな高江で悠々自適な暮らしをしようと思っていた矢先の9年前、真三郎さんのそんな願いは米軍のヘリパッド建設計画で破られた。自分の戦争体験を語りだしたのはその頃からだ。家族によれば、それまで戦争体験を話したことはなかったという。

70年以上前の記憶は薄れ、時々話の前後が入れ替わるときがあるが、それでも、遠い記憶の彼方から細い糸をたぐり寄せ、記憶の破片をジグソーパズルのようにつなぎ合わせ、ゲート前の若者たちに静かに語りかける。そして最後にはこう言ってひとりひとりに微笑みかける。「戦争は絶対にやってはいかん。安倍政権は馬鹿もんだ。話し合えばわかり合えるはずさ、戦争は絶対いかん」と。

島袋文子さんの体験

「目の不自由な母と弟の手を引いて暗闇の中を歩きました。腐敗した死体を踏まないように進むことは大変でした。艦砲に当たる怖さより、死体を踏むことが怖かった」

辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、不自由な体をおして、杖をつきながら工事用車両の前に立ちはだかっている一人の女性の姿が、映画「戦いくさばぬとぅどぅみ場ぬ止み」(三上智恵監督)に登場する。辺野古新基地に反対する座り込みテントでは、誰もが知っているおばあ、島袋文子さん(85歳)だ。文子さんは、沖縄戦終結前に糸満で捕虜になった。戦前は貧しさからほとんど学校に行けず、沖縄戦間際には日本軍飛行場の勤労動員にかり出された。

島袋文子さん。2015年11月11日
島袋文子さん。2015年11月11日 Photo by Takashi MORIZUMI

戦争末期、兄たちは防衛隊などに徴用され、家に残ったのは目の不自由な母と当時15歳の文子さん、10歳の弟だった。文子さんは体験をこう振り返る。「艦砲射撃や空襲、機銃掃射が激しくなって、米軍が糸満にも迫ってきていました。それで母の実家のある世名城(現・八重瀬町)に家族三人で避難することにしたんです。昼は艦砲射撃が激しいので壕に隠れて、夜になると移動するんです。目の不自由な母と弟の手を引いて暗闇の中を歩くのは本当に大変でした。母は少しの食料を頭の上に載せていました。平坦な道路だけじゃなく、畑の中も通りましたが、住民や日本兵の死体がたくさん転がっていました。

目の見えない母に『お母さん、ここは人が死んでいるからまたいでください』と教えながら死体をまたいで歩かせるんです。腐敗し、ガスがたまってパンパンに膨れた死体を踏まないように進むことは大変でした。艦砲に当たる怖さより、死体を踏むことが怖かった。間違えて踏んでしまうと、猛烈な悪臭がするんです。

ある晩、弟が『水がほしい、水が飲みたい』と言うので、真っ暗な中を探しまわり、砲弾跡にできた水たまりの水を見つけて、その水を弟にも母にも飲ませました。私も飲みました。翌朝、明るくなってから見ると、水たまりの水は死んだ人の血で真っ赤に染まっていました。暗闇の中で汲んだ水は死人の血が混ざった水だったのです。そのことは母にも弟にも言いませんでした」

戦後は、生きるために嘉手納基地で働いた。その基地内で知り合った男性と27歳の時に結婚。夫が読み書きを教えてくれた。給料の受け取りのサインは英語でしなければならなかったので英語も教えてくれた。大工だった夫は、1950年代にキャンプ・シュワブの建設が始まると辺野古に移り住み、基地建設の仕事に従事した。嘉手納にいるときに英語が話せるようになっていた文子さんは、米軍将校のハウスキーパーとして、掃除、洗濯、アイロンがけや靴磨きなどをして働いた。文子さんが担当したのは戦闘部隊の隊長で、とても親切な軍人だったという。

ベトナム戦争が始まった1960年代前半、部隊長の家に同僚が訪ねてきた。彼は「ベトナムに行くことになった。ベトナムに行くのはビジネスである」と文子さんに告げたという。文子さんはその一言が許せなかった。

「あんたたちは人殺しをビジネスだというのか。そのために私の父や姉が殺された。何がビジネスか? 人を殺すのがビジネスか? いくつ命があっても足りないよ」。文子さんはそのとき持っていたバケツを投げつけ、「もう、こんな仕事はやめる」と啖呵をきって出てしまった。

その事件以来、軍の仕事はやめた。「一生にひとつぐらい良いことをやろうと思っていますが、難しいです。私が出来ることは基地建設を止めることぐらい。それができたら、今すぐにでも天国に行ってもいいです。思い残すことはありません」。文子さんは茶目っ気たっぷ
りにそう笑った。

宮里洋子さんの体験

「〝戦争法〞ができたら辺野古の基地は日本の海外への出撃基地になる。そうしたら、沖縄はまた戦場になる。私が辺野古に通うのは、戦争で物事を解決する時代はもう終わりにしてほしいと願うからです」

2014年9月、辺野古の新基地建設現場で、埋め立てボーリング調査に抗議する宮里洋子さん(76歳)の姿があった。若い海保職員に語りかける。「私は『集団自決』の生き残りだ。二度と戦争はいやだ」

1945年3月26日、米軍は那覇の西40キロに浮かぶ慶良間(けらま)諸島の座間味島に上陸した。上陸前、住民は日本兵から、「米軍に捕まれば男は八裂きにされ、戦車にひき殺され、女は強かんされて殺される。捕まる前に自決しろ、捕虜になることは最大の恥だ」と教えられ、自決用の手榴弾が渡されていた。

大潮の日、辺野古の海はリーフまで歩いて行けた。若い海保職員を説得する宮里洋子さん。2014年9月9日
大潮の日、辺野古の海はリーフまで歩いて行けた。若い海保職員を説得する宮里洋子さん。2014年9月9日 Photo by Takashi MORIZUMI

慶良間諸島に配備された海上特攻隊は、本島に押し寄せる米軍艦船に背後から特攻攻撃をしかける部隊だった。座間味の島民は日本軍と一体となり、特攻艇を隠すための壕や塹壕掘りなどを強制させられた。軍の機密を知ってしまった住民は日本軍に監視され、島外に出る自由も奪われた。米軍の上陸後、海に囲まれた小さな島で逃げ場を失った住民は、渡された手榴弾やカミソリ、農薬などで「自決」していったという。

当時4歳だった洋子さんに、壕にいた時の記憶はない。しかし母親から、「死ぬのはイヤだー」と叫んで壕から飛び出し、助かったと聞いた。洋子さんがいた壕で何が起こったのか? 私は、洋子さんと同じ壕に避難し、「集団自決」を目の当たりにした当時10歳だった今は亡き宮里哲夫さんに、2008年にインタビューしたことがある。

哲夫さんが逃げ込んだ時、壕は、座間味国民学校の先生やその家族、近所の人たちでいっぱいになっていたという。哲夫さんと母親と姉の三人は、入り口付近に座り込んだ。目の前には国民学校の校長先生夫妻が座っていた。壕の奥で軍が住民に配った手榴弾が爆発し、耳をつんざく爆発音と、悲鳴、うめき声が聞こえてきた。入り口近くにいた哲夫さんたちは無事だった。すると、校長先生が鞄からカミソリを出し、奥さんの首を切り始めたという。

「首のあちこちから血が噴き出しました。奥さんは『まだですよ、まだですよ、お父さん、まだ死んでいませんよ』と言いましたが、そのうちにその声も聞こえなくなりました。呆然としていた校長先生は、今度は自分の首にカミソリをひと振りしました。『シュッ』という血が噴き出る音とともに、向かいに座っていた私の体に血が降りかかってきました。あのときの生温かい血とそのにおいは今もはっきりと記憶にあります」。これが、洋子さんが入っていた壕で起こったことだ。洋子さんが「死ぬのはイヤだー」と叫んだのは、洋子さんの母も、弟と姉の首をカミソリで切ったからだという。母や姉、弟も生き延びたが、首にはその時の痕がずっと残っていた。

洋子さんは言う。「実は私は辺野古にあまり関心を持っていなかったんです。でも、気づいたら(辺野古に)通うようになっていました。私の体験も、辺野古に行くようになってから話せるようになりました。二度とあの戦争を繰り返してはならない。戦争で物事を解決する時代はもう終わりにしてほしいと願うからです」

もりずみ・たかし フォトジャーナリスト。1994年から世界の核実験被曝者の取材を開始。現在は福島、沖縄の基地問題などを中心に取材。著書に『シリーズ核汚染の地球』(新日本出版社)、『福島第一原発風下の村』(扶桑社)、『やんばるで生きる』(高文社)、『やんばるからの伝言』(共著、新日本出版社)、新著に『沖縄戦最後の証言 おじい・おばあが米軍基地建設に抵抗する理由』(新日本出版社)等多数。1951年、神奈川県生まれ。