沖縄戦は1945年3月26日、米軍が沖縄の本島から西に30数キロの阿嘉島に上陸したことで始まり、6月23日に牛島満司令官が自決したことで終わった。しかしその後の6月27日から、久米島では日本軍に住人が殺戮されるという恐ろしい出来事が始まった。そしてそれは終戦の8月15日を過ぎた8月20日まで続いたのである。当時13〜14歳だった喜久永米正さんに話を聞いた。

文・写真/広河隆一(本誌発行人) 協力/比嘉絹江
Photo and Text by Ryuichi HIROKAWA, Special thanks for Kinue HIGA

参考:『久米島の戦争』久米島の戦争を記録する会(徳田球美子、島袋由美子)著、なんよう文庫刊

日本軍部隊「鹿山隊」によって子どもたちを含む久米島の2家族と区長ら9人がスパイ容疑で殺された跡(北原地区)。鹿山隊は家ごと焼きはらい、今は井戸だけが残る。写真はすべて沖縄県久米島。2015年8月22日
日本軍部隊「鹿山隊」によって子どもたちを含む久米島の2家族と区長ら9人がスパイ容疑で殺された跡(北原地区)。鹿山隊は家ごと焼きはらい、今は井戸だけが残る。写真はすべて沖縄県久米島。2015年8月22日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

スパイ容疑で日本兵に殺された

久米島東南部、サトウキビ畑の中に建つ「痛恨の碑」には、「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人」と彫られ、下に犠牲になった人々の名が刻まれている。住民を虐殺した「天皇の軍隊」とは、戦時中、久米島に駐屯した日本軍部隊「鹿山隊」(正式名称は日本海軍沖縄方面根拠地付電波探信隊)のことで、鹿山正兵曹長率いる34人の海軍通信隊だった。

久米島では20人の住民が、日本軍に「スパイ容疑」で殺害された。久米島出身で現在84歳の喜久永米正さんは、当時のことを次のように振り返る。

朝鮮人の父親の一家が虐殺されたとき、女の子たち2人がここに連れてこられて殺された。
朝鮮人の父親の一家が虐殺されたとき、女の子たち2人がここに連れてこられて殺された。 Photo by Ryuichi HIROKAWA

「一番最初に殺されたのは、郵便局の局員で電信の保守の仕事をしていた安里正次郎という沖縄本島出身者です。朝方道を歩いている時にアメリカの兵隊に捕まり、『鹿山隊長に降伏勧告状を届けろ』と依頼されたわけです。持っていかなければ殺される。もちろん日本軍も怖いんだけど、あれは友軍だから殺すまではしないだろうと考えたんでしょう。ところが安里さんは、敵の手先になったとして、鹿山隊長に殺害されたのです。銃殺でした」

鹿山隊が住民の虐殺に至る経緯として、次のような背景がある。1945年6月13日、米軍の偵察大隊が久米島に上陸した。そして現在の空港の近くの北原地区に住む比嘉亀さん宅に侵入し、亀さんと宮城栄明さんの家族を拉致する事件が起きた。しばらく経った6月29日、鹿山隊は米軍に拉致された人々をスパイとみなし、(米軍から)戻されたことを軍に知らせなかったとして、比嘉さんと宮城さんとその家族、さらには北原区長だった小橋川共晃さん、警防分団長ら9人を銃剣で突き殺し、さらにガソリンをまいて家ごと焼き払った。これはこの事件で気が動転した兵士が逃げ出し、村人に証言している。

日本軍によって殺された島民の名前が刻まれた痛恨の碑。
日本軍によって殺された島民の名前が刻まれた痛恨の碑。 Photo by Ryuichi HIROKAWA

喜久永さんは、この事件について次のように話す。

「夜、米軍に拉致されて、島の軍備状態を聞かれたりされたわけです。兵隊の数とかね。仕方なく通信隊しかいないと言ったでしょう。拉致から戻されて、鹿山隊に報告に行かなければならないけど、スパイ扱いで島人が殺されていることも知っているし、すごい怖いもんですから、軍には行かなかったわけですよ。そうしたら、連絡しなかったという理由で、家族ごと殺されたわけです」

「痛恨の碑」には、安里さんの次に、区長や警防分団長、宮城栄明さん、比嘉亀さんたちの名前が続いている。

日本軍による虐殺を語る喜久永さん。在日朝鮮人の谷川さんが殺され、幼児も斬り殺された場所で。
日本軍による虐殺を語る喜久永さん。在日朝鮮人の谷川さんが殺され、幼児も斬り殺された場所で。 Photo by Ryuichi HIROKAWA

戦争が人を追い込む 沖縄の人にとっての戦争

鹿山隊によって10人目に殺されたのは、仲村渠明勇さん一家3人である。

「仲村渠さんは久米島の恩人なんですよ」と喜久永さんは言う。「彼は海軍上等兵として沖縄本島で米軍の捕虜になり、久米島に艦砲射撃されようというのを知った時に、『この島には数十人の通信隊しかいないから、艦砲射撃はやめてくれ』と米軍に掛け合ったのです。

そして米軍が島に上陸したときには彼は米軍の道案内をしていましたから、米軍に『住民に投降するように言って来い』と言われました。明勇さんは、住民の隠れている場所を探して、危害は加えられないから出てきて家に戻りなさいと言って回ったんです。こうした行為は、鹿山隊にとってはスパイや裏切りに見えました」

仲村渠さんが殺されたのは終戦後のことだという。「終戦は8月15日ですね。ところが明勇さんは、18日になって殺されてるんです。だから、その辺が悔しいですよ」

喜久永さんは当時、仲村渠さんの近所に住んでいた。

「家が2軒隣りだったんです。この人のおかげで、米軍によって殺された久米島の島民の数は少なくて、10人だけです。ところが日本軍に殺されたのはその倍の20人です。それが久米島の戦争の特徴なんです。他の島では人口の半数が米軍の艦砲射撃で殺された島もあったのに」

仲村渠さん一家3人は鹿山隊によって突き殺され、妻は殴り殺され、小屋に運ばれ、そのあと焼かれている。場所はイーフビーチに面する銭田のサトウキビ畑のあるところだという。

「鹿山隊長は、米軍に捕まったり近づいたりした者を、みんなスパイ容疑のブラックリストに載せるんです。つまり軍の秘密をアメリカに告げていると考えたわけです。さらに島の人も、人のせいにして告げ口をすれば自分は助かるから、鹿山隊に嘘の報告をする。だからもう、誰を信じていいかわからなくなるわけですよ、戦争というのは。そういう状態に人間を追い込むんです。相手を直接殺さなくても、人間が人間でなくなっていくのが戦争ということです。

沖縄の人は、辺野古のことだって、軍事基地を作るから反対しているんです。軍事基地は戦争につながっていくでしょう。戦争は絶対、二度とやってくれるなということで反対しているわけですよ。沖縄の人は戦争の恐ろしさを知っているからです。

私は1944年には13歳、45年には14歳になりました。数えでは15歳です。何が起こったのかは大人たちは知りません。私たちより上の人間はほとんど軍隊に行って死んでしまいまして、生きていたのは僕たちだけだからです」

朝焼けに染まる宇江城岳の展望台から、自衛隊のレーダー基地を臨む。かつてはこの辺りに鹿山隊の兵舎、電探室や機械室があった。8月23日
朝焼けに染まる宇江城岳の展望台から、自衛隊のレーダー基地を臨む。かつてはこの辺りに鹿山隊の兵舎、電探室や機械室があった。2015年8月23日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

貧困の中殺された一家

「痛恨の碑」には朝鮮人が殺されたとも彫ってある。書籍『久米島の戦争』によると、1943年から住みついた朝鮮出身の谷川昇(具仲会)さんという人は、沖縄出身のウタさんと結婚し谷川姓になったと書かれている。夫婦の間には10歳、7歳、5歳、2歳、そして生後数か月の赤ん坊がいた。ウタさんは国防婦人会に入っていた。

「谷川さんは廃品の鉄くずを拾って、それを那覇に売るのが仕事だったんです。そのうち何ひとつ食べるものなくなって、米軍のキャンプ地へ行って、残飯や捨てられた菓子などを拾って食べたりするようになりました。ところがこうしてキャンプに何度も出かけるのはあやしい、スパイだということで家族全員が殺されたのです」

この人々の住んでいた場所は、上江洲地区と西銘地区の境界に接していた。その家は今も残っている。

8月20日、谷川さんがスパイとして、処刑されるといううわさが島内に広がり、鹿山隊は野良着を着て住民に変装し、上江洲の谷川家に向かった。近くの住民が急を知らせて、ウタさんは子ども2人を連れて逃げ出す。それを追ってきた兵隊が切りつけて殺したという。鹿山隊はそこから谷川家に戻り、震えていた長女と次女を連れ出し、近くの雑木林の中で首を絞めて殺した。そのあと虐殺部隊は海岸の鳥島地区に行き、次男を連れて隠れていた谷川さんの首に縄をかけて引きずって行き、息絶えていた谷川さんを護岸から突き落とし、遺体にすがって「父ちゃん、父ちゃん」と泣き叫ぶ次男を刺し殺したという。(『久米島の戦争』より)

鹿山隊によるこれらの一連の事件には多くの目撃者がいる。戦後、鹿山隊の隊長は徳島県に戻り、農協の理事になった。1972年にサンデー毎日が当時の事件のことを報告し、琉球新報も特集を組んだ。鹿山隊長はその中で「弁明は一切しない。全部責任をもつ」と語っている。

鹿山隊長のことは、島民の間ではどんなふうに言われていたのか。喜久永さんはこう続けた。

「なんとか殺さなきゃいかん、って話はしていました。でも鹿山だけの問題ではないと思います。戦争の教育のせいでもあります。島民がどんどん殺されていっても、軍隊の中でそれに反対する人はいなかった。当時の軍隊は、上官の命令は天皇の命令だと指導されていますから。一言も反対することはできませんよ。そういうような時代ですから。戦争というのは、こういうことが起こる事態だ、ということです」